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2009.08.13 (Thu)

■ 戦争と動物 ■ 

ネットで見つけた記事を紹介します。
戦争は人間にとっても、どうぶつにとっても、悲劇しか生みません。
戦争の犠牲になったどうぶつの話はいくつか聞きますが、
これも戦争の犠牲になったどうぶつの話です。





<子どもは見ていた>戦争と動物  馬の出征、泣いた母

◇農家支えた大切な家族 多くは殺処分、待てど帰らず

 桜の木の下で、馬にニンジンをやる母の手が震えていた。お母さんはなぜ泣いているの。まだ3歳で分からなかった。「食べさせてあげて」と母に言われ、リンゴ箱に乗ってニンジンをあげた。

 北海道新ひだか町に住む元学校教諭の春子さん(69)=仮名=は飼っていた馬を軍に差し出した日のことをはっきりと覚えている。1943年。開拓農家で、5頭ほど飼っていたうちの1頭だった。「栗毛(くりげ)でつやが良く、しっぽの黒い毛が揺れると、きらきら輝いて星が降るようでした」

 翌44年、父が出征した。終戦の年の秋に復員し、戦争とはどんなものかを悔しそうに話した。鹿児島で特攻機の整備をしていたが、見送りで涙を見せて上官に殴られたこと。「おまえの命は1銭5厘(召集令状のはがき代)。馬の方が高いんだ」と怒鳴られたこと。

 あの馬のことも教えてくれた。引き取りに来た役人が「きれいだから将校が乗るだろう」と言っていたと。でも、とうとう帰ってこなかった。

     *

 農業がまだ機械化されていなかった時代、農家にとって馬は大切な家族であり、働き手だった。戦争が始まると軍に徴発されて海を渡り、最前線へ送り込まれた。頭に日の丸の旗を結び、首や胴に「一死報国」「祈武運長久」と書いた布を巻きつけた馬たちを、みんな家族の出征のように「万歳」と声をかけながら見送った。

 その馬たちは戦後どうなったのか。知る人たちを訪ねるうちに、私(記者)は悲しい最期を知った。

 戦地からの復員が本格化し始めた45年10月。まだタイの地にいた久木田澄信さん(89)=埼玉県坂戸市=は左手に手綱、右手に銃を持ち、泣きながら馬の前に立っていた。

 降伏以降、部隊は首都バンコクに近いナコンナヨックで英軍の監視下に置かれた。英軍は乗馬用の優秀なものを除き、用のなくなった馬を殺すよう命じた。「Keep(生かせ)」「Destroy(殺せ)」。英兵の一言で、一頭一頭の運命が決まっていく。

 砲兵だった久木田さんにとって、大砲を運んでくれる馬は戦友だった。敵軍に橋を破壊されても部隊を先へ進められたのは、彼らのおかげだ。部隊の食料が尽きかけた時も、こっそりまんじゅうを与えた。ポケットに入れたままにしてじらすと、鼻をすりつけ子どものように甘えてきた。

 だが英軍は軍曹長だった久木田さんに最もつらい役を担わせ、頭数と同じ数だけの銃弾を手渡した。「苦しまず1発で死んでくれ」。それだけを考え、次々と引き金を引いた。馬たちはいななくこともなく、ざんごうの底に沈んだ。1日で処分した馬は部隊全体で約1400頭に上ったという。

 「苦楽を共にした物言わぬ戦友を、自分の手で処理したのです……。身の不運を嘆きました」。久木田さんは声を詰まらせながら言った。

     *

 18歳で出征した伊藤一雄さん(83)=北海道津別町=にも、馬とのつらい別れがある。沖縄戦で旧満州(現中国東北部)から連れてきた350頭の世話をした。米軍の猛攻撃が始まると、一緒にざんごうへ逃げた。馬も恐怖で震えているのを肌で感じた。

 44年暮れに沖縄から台湾の軍病馬廠(しょう)(獣医学校)への派遣を命じられ、そのまま終戦を迎えた。その後も日本から連れてきた馬を世話していたが、伝染病がまん延し、感染した馬を処分して台湾側に引き渡すことになった。

 「天国に行くんだよ」と1頭ずつ塩や砂糖をなめさせ、バケツで水を飲ませた。現地の人が馬の眉間(みけん)にハンマーを振り下ろす。大きな体が崩れ落ちた。「許してくれ!」。思わず叫び、血にまみれた馬の頭にしがみついた。

 たてがみをなでていて、硬いものに触れた。小さなお守りがくくり付けられていた。開けるとお札と一緒に<啓國号 五才祈武運長久>と、名前や年齢を書いた小さな板が出てきた。無事帰るようにと願い、飼い主たちが結んだものだった。

 北海道に戻った伊藤さんは生花店を始めた。戦友や遺族と沖縄を訪ねては兵士や馬たちの遺骨を収集したが、仲間も高齢化して昨年が最後になった。書きためてきた手記もパーキンソン病が悪化し、ままならなくなってきた。「戦争を思い出すのはつらい。でも忘れられるのは怖い」

 二度と古里の土を踏むことのなかった馬たち。軍馬は兵器に準ずるとされたため、記録は戦後すぐに焼却され、ほとんど残っていないという。【中西拓司・38歳】=つづく

◇「兵器」として数十万頭徴発

 <馬は兵器だ>。北海道本別町の歴史民俗資料館には、1936年ごろ当時の馬政局が作製したとみられるポスターが保管されている。長野県の農家から見つかった。瀬藤範子館長は「今見ると異様ですが、たった70年前の日本の様子がここに表れている」と話す。

 旧日本軍は北海道・東北地方や朝鮮半島などに「軍馬補充部」を設け、馬を農家から徴発していた。39年、政府は「愛馬の日」を制定し、軍馬の育成を国民に奨励。同年には馬の徴発体制を強化する法律も定め、戦争への道をひた走る。連合国の経済封鎖でガソリンなどが手に入りにくくなると、馬の機動力は一層重要視されていった。戦地に送り込まれた馬は数十万頭に上るとみられる。




この話、"戦争の犠牲になったから可哀想"だとか"飼ってた馬だから可哀想"とか思った方。
毎日毎日、これ以上のうしさん・ぶたさん・とりさんが"食べ物"として、これ以上の酷い殺され方を
しています。
理由が戦争であれ食用であれ、ひとつの"命"が犠牲になることには変わりはありません。

"肉食"

少し我慢しませんか?
みんなが少し我慢することで、多くの"命"が助かります。




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